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PUMPQUAKES 読書会vol.2 松村圭一郎「くらしのアナキズム」



PUMPQUAKES 読書会vol.2

課題書籍: 松村圭一郎『くらしのアナキズム』

ファシリテーター:佐藤貴宏(PUMPQUAKES)

だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。自分たちの暮らしを見つめなおし、内なる声とその外側にある多様な声に耳を傾けてみようとうながす。その対話が身近な人を巻きこんでいく。「私たちそんなことやるために生きてるわけじゃないよね?」と。(本書より)

株式会社ミシマ舎 2021年刊 日時:2022年3月8日14時~16時 ※オンライン開催(ZOOM) 料金:無料 予約:要申し込み(定員有)pumpquakes@gmail.comまで氏名をご連絡ください。 当日までに本書に目を通していただいての参加が望ましいのですが、読んでいない方も参加可能です。各章の概要は当日共有します。 助成:持続可能な未来へ向けた文化芸術環境形成助成事業(公益財団法人 仙台市市民文化事業団)

【目次】 はじめに 国家と出会う

第一章 人類学とアナキズム 第二章 生活者のアナキズム 第三章 「国家なき社会」の政治リーダー 第四章 市場のアナキズム 第五章 アナキストの民主主義論 第六章 自立と共生のメソッドーー暮らしに政治と経済をとりもどす おわりに




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読書会レポート vol.02 松村圭一郎『くらしのアナキズム』



2021年3月8日(火)、文化人類学者の松村圭一郎さんによる『くらしのアナキズム』を読み、2回目の読書会を行いました。オンラインでの開催となりましたが、本の内容に共鳴した遠方の方々にも参加してもらい、話題は今自分たちの身の回りで起きている問題にも広がりました。概要をアーカイブとして公開します。



第1章 人類学とアナキズム & 第2章 生活者のアナキズム

今の私たちの暮らしに政治を取り戻すことはできるのだろうか。

国家を私たちは前提として疑いもなく生の基本に据えている。そういった前提への疑いを人類学は未開とされる社会を研究する中で考察してきたのである。また、国家なき社会を考える上ではアナキズムは革命を目指す志向としてではなく新しい視座を見つける助けを与えてくれるのではないか。

かつては国家なき社会は世界中いたるところにあり、そういった社会は国家に繰り返し取り込まれ、逃れる必要に迫られた。歴史や無数の過去と共にあることに無意識であり、今にしか生きていないのではないか。周りの人と生活の中で見たもの、感じたことを確認し合い、過去から未来へ向けて想像することが重要なのではないか。また、コロナ禍での多くの人が強い国家へ期待する風潮が強くなった。それが権力側からの強制としてではなく自分たちの内側から隷従することを欲するような状況を私たちは目の当たりにした。

それを考えるためには権力側からの自己責任論ではなく、社会の中で自分で考え、動くこと、そしてお互いにケアし合う関係が成立するような社会をチューニングし続けることが大切なのではないか。


第3章「国家なき社会」の政治リーダー

権力への欲望と隷従への欲望が国家権力を生み出す根底にある。国家が既にある状態でも私たちは平等社会をどのように獲得することができるのか。

人類学のフィールド研究の例をみていくと国家なき社会にも決して政治的リーダーがいなかったわけではないということが分かってくる。資質として共通していることは、集団への全責任を負うこと、また気前がいいことが挙げられる。

「リーダーは集団のために、集団に貢献する限りにおいて、ある種の特権や権威を一時的に集団から託されているにすぎない」

人々はリーダーに服従する義務はなく、いつでもその地位から引きづり降ろす権利を持っている。ここでは「同意」をいかにリーダーが獲得、維持するかにかかってくる。


国家なき社会で成し得た平等社会は国家の成立によって失われてしまった。民主主義国家は矛盾でしかない。むしろ国家から逃れてきた人たちによって民主主義は生まれたのである。(グレーバー)


国家なき社会における富の分配が平等社会を保つ大きな役割としてあるということは、経済、または労働についての視点が重要ではないか。

「働くことの人類学」という対談集を参考に国家なき社会におけるいくつかの例を挙げて考察することができた。労働の変化、支配者と被支配者の関係によって近代以降の過剰生産、過剰消費につながっていったとういうことを確認し、またリーダーの利他的な振る舞いとキリスト教的な自己犠牲との違いについても触れることになった。


第4章 市場のアナキズム

「市場(市場)」と「市場(いちば)」の違いについての説明の後に「市場(いちば)」に貫通するアナキズムの思想についての考察。食糧生産をしない都市が発達したことによって周囲の農村、漁村からの供給が必要になった。そこで生まれた様々な産業(仲介、運送業者)は権力からすり抜けるように自由な活動をした。空いた土地があると市がすぐに立つように。また市は芸能の始まりの場所でもあった。網野善彦は市場が自由と平和が保証された「無縁所」であるとし「公界(くがい)」でもあったと指摘している。市場は権力をうまく利用しながら、特権的な自治の空間を維持していたが、やがて国家のヒエラルキーに統合され、女性の非権力的な特質が敗北していくことになる。さらに国家は独占商人のちに資本と結びつくことで市場(いちば)の自由と平等は失われていくことになる。

自由な空間における「禁制」の役割は大きかった。カオスにはならないのはそのためか。外側の有縁の影として無縁。その社会的なバランスが必要なのではないか。日本では寺がその無縁所のや機能を現在持っているのかは疑問である。コロナ禍ではキリスト教会は保護に動いたが寺はその動きがなかったように思う。日常の中にそれぞれが無縁の場所を確保することの大切さ、様々な役割から解放される場所、それを他者が攻撃しないこと。芸術はそこと密接に関係しているのかもしれない。


第5章 アナキストの民主主義論

平等な社会は徹底的に納得がいくまで話し合い、合意形成を行う。年長者が調停人として揉め事に入り、コミュニティの中で不満や対立が起こらないようにコンセンサスを取ることが優先される。民話の中、また三陸の伝統芸能の場にもそれはみられる年長者の態度である。多数決という採択方法は勝者と敗者を生み出しコミュニティを壊してしまう可能性がある。だから私たちは日頃から会話をして何を大切にするか、美しいとするかを確認する必要があるのではないか。集団の生活第一主義がそこでは目指されている。しかしそこでは被差別部落や村八分など意思決定からは排除されていたことも忘れてはならない。「政治」とは選挙での投票による意思決定だけではない。その前に時間をかけて「政治」の現場である「くらし」の中の関係性や場を耕しておくことは欠かせない。

時間をかけて合意形成することを原則とすれば、大きな進歩に国家単位で邁進するようなことは起こりにくい。そういう意味でTOPE(メキシコの道路にある一時停止させるための段差)的な役割を果たすのではないか。お茶飲みがてらの対話が間接的な互いの違いへの確認作業として大切である。それはブエン・ビビール(スペイン語で良きくらし)にもつながることである。


第6章 自立と共生のメソッド ー暮らしに政治と経済をとりもどす

国家などの大きなシステムに頼らず、いかにして下から民主的な「公共」の場を作るか。

そのためにはある種のコミュニケーションの技法が欠かせない。現行システムにアナキズム的なスキマを作り出すための鍵は何気ない日常に埋もれている。

エチオピアでは貧困に対して人々が関与するスキマがある。国家がそれらの問題を対処し、私たちはその煩わしさを排除することで自ら自由なライフスタイルを選択していると思っている。しかしそのことで他者、社会問題に対してどこか無関心になっている。安藤昌益の「もれる」という概念が参考になる。他人の問題が常にもれ出ていて、富も独占せずに必要な人にもれ出ていくような状態が社会において重要なのではないか。

コンヴィヴィアリティ(共生的実践)は不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、均衡・衝突すると定義されている。西洋近代の完全性とは異なる概念が、アフリカの民衆的な想像力の根底にある。複合的で変化し続けるアイデンティティは新たなシティズンシップの形成につながるのではないか。私たちの経済を立て直すこと。集団のために交換、贈与、そうしてできた関係を誇り、尊厳となる仕組みがニューギニアではみられる。そういったエッセンスをいかに日々の暮らしの中の実践で入れていけるのか。ささやかなな抵抗は少なからず国家の中にスキマをこじあける動きへと繋がっていく。アナキズムが歴史を動かしてきた。正しさ、理念を掲げるのではなくそれぞれの「暮らし」に立ち戻り、他者と対話し続けること、自分の内なる思いや身近な他者の生きる日常が既存のルールや思想と一致しない現実をあぶりだすことが必要である。


そういった空間を作っている人たちはすでにいて、IRACRY IN PUBLIC汽水空港など日常の接続について考える際には参考になるのではないか。


ベルリンの壁の崩壊が冷戦の終結ではなかったというのがこの度のロシアのウクライナ侵攻によって明らかになった。この問題を考えていく上で私たちは西側=NATO側の立場に無意識に立っているのではないか。私たち自らの歴史を省みることなしに善悪の判断を下していいのだろうか。日々、自らの周りの人を招き、お茶のみを心がけ、そしていざという時の連帯できるような土台を耕す重要性を最後に確認した。





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